
ペルシア戦争はペルシア軍とギリシア連合体との戦いです。
一度だけの戦いではなく、いくつもあるペルシア軍とギリシア軍との戦いをまとめた名称が「ペルシア戦争」なのです。
この戦争については、ほとんどがヘロドトスの『歴史』の情報を頼りにしているので、

ヘロドトスの主観が入ってペルシア戦争を歪めてしまっている
という批判もあるほどです。
そんなペルシア戦争についてざっくりとまとめてみました!
ペルシア戦争のきっかけ
そもそも、何故ペルシア戦争を行う事になったのでしょうか?
それはアケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世という人物が深く関わっています。
ペルシア戦争の始まりのきっかけを分かり易く解説してみた!
ペルシア戦争とは、ペルシア軍とギリシア連合体との戦いです。そもそも、この戦争はなぜ起きたのでしょうか?アケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世が起こした大規模な戦争の原因を詳しくこの記事では解説しています!
まずは、こちらの記事を先にお読み下さい。
マラトンの戦い
ダレイオス1世はペルシア戦争の中で2回遠征を行いましたが、どれも失敗しています。
そのうちの一つが、マラトンで起きた戦いです。
マラトンはギリシアのポリス(都市国家)の一つであったアテナイの主要な港でした。
マラトンの戦いについて詳しく知りたい方は、
マラトンの戦いはどこ対どこ?戦争の背景を分かり易く解説!
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ダレイオス1世は自らも遠征に行こうと再度準備を進めていました。
ですが、エジプトやバビロンの反乱で実現できぬまま死んでしまいました。
後継者クセルクセス1世
この次に王となったのがクセルクセス1世です。

私が次の王だからって、遠征かぁ。乗り気じゃないんだけどなぁ…
とクセルクセス1世は後ろ向きでした。
しかし、ダレイオス1世の娘婿であった将軍マルドニオスに説得され、バビロンとエジプトを平定し、

うん、ギリシア遠征やってみようじゃない!
と決意するのです。
ギリシア連合の結成
ヘロドトスの記述によれば、ペルシアの遠征軍の総数は528万人以上と言われています。
しかし、これは明らかに多すぎです。
なので、この動員された兵力には諸説あります。
いずれにせよ、ギリシア側の兵力をはるかに超えるほどの規模であったことに間違いはありません。

ペルシアが攻めて来る…!
この脅威にポリスたちは怯えます。
アテナイの政治家かつ軍人であったテミストクレスは、会議を開き戦う意志のあるポリスの代表者を招きました。
ここで決められた、
- ポリス間の紛争の即時終結
- スパイ派遣
はすぐに実行されました。
ここで、ギリシア連合と呼べる体制が整ったのです。
しかし、ペルシアの攻撃を真っ先に受ける位置にあるポリスの中には、ペルシア側に付くものもありました。
テルモピュライの戦い
テルモピュライという土地で、スパルタ王レオニダスを中心としたスパルタ軍がペルシア軍と戦います。
しかし、ペルシア側に付いたギリシア人が裏切り、ペルシア軍にテルモピュライの裏道を教えてしまいます。
その結果、レオニダス王を含めたスパルタ軍は敗北してしまうのです。
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テルモピュライの戦いとは?兵力差のあった戦いの7つの歴史
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サラミスの海戦
テルモピュライなどの主要な防衛線が突破されたことにより、ペルシア軍がアテナイに迫って来ました。
ペルシア軍の前にアテナイの有名な小高い丘が陥落し、アテナイは完全に占領されてしまいます。
テミストクレスは他のギリシア連合の意見を曲げてまで、

サラミス水道での海戦をしよう!
と主張します。
この結果、なんとテミストクレスはギリシア連合艦隊をまとめあげ、ペルシア艦隊を打ち破ってしまいます。
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サラミスの海戦とは?概要からその後までを分かり易く解説!
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プラタイアの戦い
アケメネス朝ペルシアの将軍マルドニオスは、再びアテナイに入りアテナイ民会に

服従せよ
と要求します。
しかし、アテナイ人は逆に怒り使者を撃ち殺してしまうのです。
このため、マルドニオスはアテナイ市街を完膚なきまでに破壊し尽くしました。
これをきっかけに、主にスパルタ軍とアテナイ軍を中心にペルシア軍を迎え撃ちます。
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プラタイアの戦いとは?スパルタ勝利までの4つの歴史を解説
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ペルシア戦争の影響
クセルクセス1世は暗殺されてしまいます。
しかし、その後もちょっとした争いは続きました。
ペルシアもギリシアも決定的な戦争の成果を上げることなく、和睦して戦争は終わりました。
ペルシア戦争により結束したかに見えたギリシアでしたが、水面下では有力ポリスの間で覇権争いが続いていました。
特に戦後はアテナイとスパルタの権力化争いが目に見えて激しくなります。
アテナイは一連のペルシア戦争の中で、陸軍国から強力な海軍の力を持つ海上貿易国家へと成長することに成功します。
ペルシア戦争のその後
ペルシア戦争のためにアテナイ主導で締結されたデロス同盟では、経済的結束による同盟関係とは言いつつも、実態は同盟を結んだポリスたちの支配でした。
事実として、あるポリスがデロス同盟から抜けようとしたら、アテナイ軍に包囲されて強制的に同盟に再加入させられました。
また、同盟国から集めたお金はアテナイの国庫に流用されるようになり、その後には金庫そのものがアテナイに置かれ城の再建にも使用されました。
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一方、ペルシア戦争にかなり貢献したスパルタなど農業中心のポリスには勝利した事による見返りがほとんどありませんでした。
さらに、アテナイがスパルタの敵対国と同盟を結んだ事によって、スパルタとアテナイとの間に決定的な軋轢が生じました。
この対立が後のペロポネソス戦争に発展していったのです。
ペロポネソス戦争についてさらに詳しく知りたい方は、
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参考:『ペルシア戦争』