ダレイオス1世は何した人?アケメネス朝王8つの功績まとめ

ダレイオス1世は何した人?アケメネス朝王8つの功績まとめ

アケメネス朝ペルシアの初代王は、キュロス2世です。そこから数えて第3代目が、今回のダレイオス1世です。彼の名前は、

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確固たる善を保持する者

と言う意味を持つのだそうです。

彼については、『ベヒストゥン碑文』に複数の言語で詳しく書かれています。また、世界遺産で有名なペルセポリスの建設を開始した王でもあります。

ダレイオス1世の称号の意味

ダレイオス1世には、世界帝国の王であることを強く意識した様々な称号が与えられていました。

それはキュロス2世も同じような称号は持っていたのですが、この2人には決定的な違いがありました。それは、その称号が誰向けだったのか、ということです。

キュロス2世の称号は、メソポタミアの神々の支持によるバビロニア向けの政治宣伝的なものでした。

一方、ダレイオス1世の称号は、イラン系固有の宗教を信仰するペルシア人向けのものでした。

この変化の意味するところは、ダレイオス1世が王位継承者ではなく、その地位を奪った者である可能性が高く、ペルシア人達の支持を勝ち取る必要があったと考えられます。

そんなキュロス2世について詳しく知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さい。

ダレイオス1世はどこから来た?

ダレイオス1世の幼少期については、未だによく分かっていません。ヘロドトスによれば、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちだったと言われています。この職は、王に近い人物のみが付ける高い職業だったようです。

また、バビロニアの2人の娘と結婚して、3人の子供を儲けました。ダレイオス1世が活躍したのは、カンビュセス2世が死んだ後の王位継承争いの頃です。

この頃のお話は、ヘロドトスの『歴史』にある逸話とダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文に残っています。この物語についてさらに詳しく知りたい方は、

こちらの記事を先に読んでみて下さい。

王国全土の反乱を鎮圧

スメルディス(カンビュセス2世の弟)の偽物を倒した後、王となったダレイオス1世は王国全土の相次ぐ反乱を鎮圧しなければなりませんでした。これらの経緯は、べヒストゥン碑文に詳しく書かれています。

偽スメルディスの死の翌月、エラムでの反乱やバビロニアの自立運動が起こりました。どちらの都市でも、自称王と名乗る人物たちが登場した事件です。

ダレイオス1世はエラムの反乱の主犯者を逮捕し、次にバビロニア軍も撃破してしまいます。そして、バビロニアの自称王も殺してしまうのです。

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ダレイオス1世自身も、血筋は王家でないのに…。エグいことしますよね!!

こうして、ダレイオス1世はどちらの都市の反乱も鎮圧してしまいます。彼がバビロニアに滞在している間、さらに立て続けに反乱が起こります。どの反乱も、自称王が起こしたものばかりです。

自称エラム王が起こした反乱は、彼の部下の裏切りにより殺害されてしまいます。なので、この反乱の鎮圧はすぐに終わりました。

自称メディア王の起こした反乱は、アルメニア、アッシリア地方まで巻き込む大規模なものとなりました。何度も攻防を繰り広げ、メディアでの最終的な戦いで逃亡していた自称メディア王を捕らえます。

当然殺されたのですが、その殺し方が実にエグいのです。鼻と耳、舌を削ぎ落とし、最後に串刺しです。この殺し方が見せしめになったのか、反乱はようやく鎮圧されたのです。

この後も反乱は続きましたが、ダレイオス1世は次々と反乱を鎮圧して行くのです。

これは本当かどうか分かりませんが、これらの激しい反乱は、ダレイオス1世が即位したその年の内に発生したものと言われています。こういった数多くの反乱の鎮圧により、彼は王国の完全支配を成し遂げたのです。

王の目・王の耳・王の道

ダレイオス1世は、奪い取った王位を安定させるために、キュロス2世の娘2人と結婚し、殺されたスメルディス(バルディヤ)の娘、カンビュセス2世の妻となっていた娘とも結婚しました。そうする事により、王家の血筋の独占を図ったのです。

彼の王国は20~29に分けられていましたが、それぞれに行政官が任命されていました。そして、その動きを監視するために、「王の目」や「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちがいました。

また、国家体制の構築や軍隊の迅速な移動のために「王の道」という道路網が整備されました。2,400㎞の道中に駅が111ありました。

この時代の乗り物は馬車を使っていたようで、普通90日かかるような道でも、早馬だと7日で移動できたと言われています。

中央集権を支えたものとして、他にも貨幣制度の整備があります。その制度は不完全ながらも、銀貨や銅貨を各地の行政官が発行し、ダレイオス1世自身も金貨を発行しました。

そんなダレイオス1世が、新たな首都としてペルセポリスの造営を開始しました。なぜその土地を選んだのか理由は不明ですが、この都市の造営はその後の世でも続きました。ここには、数多くの建築碑文や大きなダレイオス1世像が残されています。

インドとスキタイへの遠征

お金に余裕のあったダレイオス1世。かつてスキタイ人たちが小アジアを攻め取ったことへの仕返しとして、スキタイ人たちが住むスキュティアへの遠征を思い付きます。彼の弟は

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いや、そんな遠征無茶っしょ!

と止めようとしましたが、ダレイオス1世は

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いや、行けるっしょぉ♪

とむしろ攻撃を強行したのです。その結果、通り道であったトラキア地方の諸族は

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参りました

と戦わずして降伏、唯一抵抗したゲタイ人もすぐに征服されました。

余裕でスキュティアを征服出来ると思われましたが、スキタイ人がいる本拠地の攻撃に、ダレイオス1世側は大きな損害を出してしまったのです。そして、撤退を余儀なくされます。

この時に確保したトラキアは、後のギリシア遠征への土台となります。

いつ頃行われたのかは分かっていませんが、インダス川流域の遠征も行われました。この遠征に先んじて、ダレイオス1世はインダス川流域と河口、インドからエジプトへの航路の確認を命じます。

彼がインドのどこを実際に征服したかは分かっていません。いずれにせよ、インドはアケメネス朝ペルシアの中で最も税収の多い地域となりました。インドだけは、他の地域の徴税の合計に匹敵したと言われています。

イオニアの反乱までの過程

ギリシア人の一派であるイオニア人は、元々アケメネス朝ペルシアに大人しく従っていました。

そして、アケメネス朝ペルシアもイオニア人のポリス(都市国家)に自治を認めつつ、従属する僭主(せんしゅ)を統治者として支配していました。

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僭主って何?

と思った方は、こちらの記事をお読み下さい。

ダレイオス1世のスキタイ遠征の最中、スキタイ人はアケメネス朝ペルシアの軍団にいたギリシア人部隊に政治的工作を行います。そして、

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ペルシアを裏切って離れてみない?

と勧めたのです。これに

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うん、そうだなぁ。ペルシアに従ってばかりでやってられるか!

と同意した僭主もいましたが、イオニアの首都の僭主が、

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ダレイオス1世によって我らの地位が安泰なのだ

と主張します。これに、

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う、うむ。そうだな。そう考えるとそうだな、うん

と他の僭主たちも同意したので、結果的にはこの時に反乱は起こりませんでした。

ダレイオス1世の軍がスキタイ遠征から引き揚げた後、残ったペルシア軍に周辺地域の平定を任せました。その指揮官に任じられたのが、メガバゾスです。彼は、トラキア地方をほぼ制圧し、マケドニアの手前まで支配しました。

彼が帰った時に、イオニアの首都の僭主は

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よくやってくれたよねぇ。大きな手柄でわし感心しちゃったよぉ!

として、新たな領土を与えられていました。それを見たメガバゾスは、

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な、なんだと…?!私がいない間にそんなことが!

とその僭主を危険視します。そして、イオニアの首都の僭主を本国に移させます。

その後、メガバゾスの後任者がどんどんと領土を制圧して行き、アケメネス朝ペルシアの支配地は拡大して行きました。

紀元前499年、アケメネス朝ペルシアの行政官とイオニアの首都の臨時僭主が

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ペルシア王調子乗り過ぎだろ。ここらでやったろうぜ!

と共謀します。内容はナクソスという都市の内紛を利用して、その都市を征服しようと企んだのです。

しかし、この2人は方針の違いにより対立します。さらに、軍資金は底をつき撤退を余儀なくされます。イオニアの首都の臨時僭主は、

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やっぱ、責任問われちゃうかなぁ…。どうしよう、めっちゃ怖いやん。えぇい!もうやけだ!!

と反乱に踏み切ったのです。彼が他のイオニアの都市も巻き込んだため、「イオニアの反乱」と呼ばれるようになりました。

また、アテナイやスパルタなどにも支援を要請しました。スパルタは協力NGだったものの、アテナイやエレトリアは軍事支援をOKしました。

しかし、アテナイは初戦の敗北を見た後に、イオニアを見放します。その結果、イオニアの反乱は紀元前494年にイオニアの首都が陥落したことにより鎮圧されたのです。

ペルシア戦争のきっかけ

イオニアの反乱をきっかけに、ペルシア戦争へと発展しました。この戦いは、ダレイオス1世の功績の中で最も有名です。

ペルシア戦争は大規模な戦いだったため、何回か行われました。その戦争の中で、彼の時代の戦いは第1回目です。ペルシア戦争をさらにより詳しく知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さいませ。

ダレイオス1世の死とその後

ダレイオス1世はペルシア戦争の中で2回遠征を行いましたが、それらの遠征に失敗して、

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きぃぃぃぃ!なんだ、この失態は!!もうこうなったら、とことんやっちゃうよぉ?

と大規模な遠征軍を編成して、自らも赴こうとしました。しかし、その準備中にエジプトで反乱が起き、

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はて?ギリシアとエジプト、どっち優先すべきかね…。

とダレイオス1世は悩みます。しかし、決断を待たず彼はなんと急死してしまうのです。ギリシアの遠征もエジプトの反乱鎮圧も、後継者の手に委ねられることとなったのです。

その後継者は、キュロス2世の娘との間に産まれた息子が王子となりました。ダレイオス1世が王として即位する前に、実は結婚していた妻がいました。

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彼女との間に、3人の息子がいたんですけどね。

やはり、ペルシアの血にこだわってきた彼には、キュロス2世の血を受け継いだ息子を選んだのは、当然の結果だったのかもしれません。

ダレイオス1世は、まぎれもなく偉大なペルシアの王でした。その後も、ギリシア人たちに大きな印象を与え続けたのです。

ヘロドトスは、ダレイオス1世の即位から死までをちょっとした小話を交えつつ記録に残しています。

また、アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたマケドニアの王アレクサンドロス3世は、

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キュロス2世とダレイオス1世は、何と素晴らしいんだ…。

と2人の創始者の業績に感動しました。そして、彼らのお墓を訪れた時には、ダレイオス1世の墓に刻まれた碑文をギリシア語に翻訳するよう命じたのです。


参考:ダレイオス1世