パルテノン神殿とは?語源の意味や歴史を簡単にまとめてみた
ギリシャの有名な世界遺産と言えば、アテナイのアクロポリス(小高い丘)にあるパルテノン神殿でしょう。

ギリシャの神殿とかって有名だよね。パルテノン神殿も聞いたことはあるけど…。
とパルテノン神殿を深く知らない人も多いのではないでしょうか?
ここでは、そんな方のために
- パルテノン神殿の由来(起源)
- パルテノン神殿の簡単な歴史の流れ
についてまとめてみました。
これを読めば、パルテノン神殿についてのある程度の豆知識は身に付くはず。それでは、一緒に見て行きましょう!
パルテノン神殿とは?
パルテノン神殿とは、ポリス(都市国家)の一つであったアテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿です。

アテーナーってどんな女神なの?
と思った方は、こちらの記事を参考にしてみて下さい。
ギリシャ神話の『アテナ(アテーナー)』の3つの神話物語
ギリシャ神話に登場するアテナ(アテーナー)ってどんな神? アテナイの街の由来とは? アテナに息子はいるの? そんなゼウスの娘であるアテーナーが主役の物語を3つをご紹介します!
古代ギリシア時代に、アテナイのアクロポリス(小高い丘)の上に建設されました。
建設が始まってから工事完了まで9年間掛かり、建物の装飾まで含めると合計16年間掛かっています。
パルテノン神殿は、古代ギリシアの建築様式の一つであった「ドーリア式」建造物の最高峰と考えられています。
装飾彫刻もギリシア美術の傑作であり、この神殿は民主政アテナイの象徴でもあります。アテナイの民主政についての記事も書いているので、
アテナイの民主主義の父ペリクレスが行った民主政治とは?
良ければこちらの記事もご覧下さい。
パルテノン神殿はこういった理由から、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されています。
パルテノン神殿の語源
「パルテノン」の語源は、ギリシア語の「処女宮」から来ています。その名前の由来となった理由は、かつてパルテノン神殿内に特別な部屋が備えられていたからです。

その部屋がどこにあるのか、また何故そのように呼ばれたのかは色々と言われています。
パンアテナイア祭(古代ギリシアのアテナイで行われていた最大の祭典)でペプロス(古代ギリシアの女性が着用していた丈の長い衣服)をアテーナ―に献上するため、

どれが良いかしら?
と4人の少女が服を選ぶための部屋だと言われています。
別の意見では、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)への信仰が、
パルテノン=処女神の宮殿
を意味し、

アテーナー・パルテノスと関係があるのでは?
と言われています。
しかし、野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「パルテノス(処女)」が、戦略と戦術・手芸そして実践理性のアテーナーにも使われている理由は謎です。
同じ処女神である女神アルテミスについてさらに詳しく知りたい方は、
ギリシャ神話の女神『アルテミス』の3つの神話エピソード
ギリシャ神話における狩猟と貞潔の女神アルテミスとは一体どのような女神だったのか?貞潔の女神とオリオン座の神の恋愛があまりに悲しすぎたその理由は?女神アルテミスの神話エピソードを小説風にしてご紹介!
こちらの記事を参考にして下さい。
他にも、こんな意見があります。

宮殿の名前が「処女」であるのは、都市の安全を祈願するために、処女が人間として最高の神への生贄だったからでは?
とも言われていますが、どれもパルテノン神殿の語源の明確な根拠にはまだなっていないようです。
パルテノン神殿の歴史
神殿は完璧な新築ではありません。かつては、「古パルテノン」と呼ばれるアテーナーの神殿がありました。しかし、ペルシア戦争によって破壊されてしまったのです。
古パルテノンの破壊の原因となったペルシア戦争についてさらに詳しく知りたい方は、
ペルシア戦争とは?戦いの順番を簡単にざっとまとめてみた
ペルシア戦争がややこしくてよく分からないよ!という方は必見です。ペルシア戦争の流れを簡単にまとめて解説しています。
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破壊された後にパルテノン神殿は再び再建され、アテナイ帝国の国庫として使われました。
ここまでが紀元前のお話です。紀元後にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれます。そして、聖母マリア聖堂となったのです。
この状態がしばらく続きますが、オスマン帝国の占領した後の1460年代初頭にはモスク(イスラム教においての教会みたいな場所)へと変えられ、神殿内にはミナレット(塔)が建てられました。
1687年にオスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿は、ヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上します。

この爆発により、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けました…!
1806年にはイギリスの伯爵が、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去りました。この行動にオスマン帝国側は

持って行って良いよ~
と了承しています。
これらの彫刻類は、1816年にロンドンの大英博物館に売却されて、現在でも展示されています。それに対して、ギリシャ政府は

これらの彫刻は我らギリシャの誇る文化遺産だ!返してもらおう
と返却を求めていますが、実現には至っていません。
その一方、ギリシア文化・観光庁は

後世に伝えるために、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全をして行こう!
と再建計画を進めています。
パルテノン神殿についての建築様式や歴史についての記事は、他にもまだまだあります。パルテノン神殿についてさらに詳しく知りたい方は、
これらの記事も併せてお読み下さいませ。
参考:パルテノン神殿