修験道や山伏とは?天狗と繋がりのある歴史をまとめてみた。

修験道や山伏とは?天狗と繋がりのある歴史をまとめてみた。

修験道(しゅげんどう)は、山の神様を信じ山岳で修行をすることで、神からの力を得ると信じている日本独自の宗教です。

山伏(やまぶし)は、山で修行する修行者のことを指します。

そんな修験道と山伏って、そもそもどうやって出来たものなのか?また、どんな歴史を辿って来たのか?

簡単にまとめてみました!

修験道とは?

古代の日本人たちは、山に神様がいると信じていました。山にこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることが出来ると信じていたのです。

こういった宗教を、修験道(しゅげんどう)、あるいは修験宗と言います。山に神がいるという山岳信仰が、仏教に取り入れられた日本独自の宗教とも言えます。

日本各地の霊山を修行の場所として、人里離れた奥深い山に行き厳しい修行を行います。その厳しい修行により、神の恵みである「験力(げんりき)」を得ることが出来るのです。

そして、その力を生きとし生けるものたちへの救済に使うことを目指します。そんな実践的な宗教なのです。

山岳信仰の対象の山は「霊山」と呼ばれ、その中でも和歌山県にある熊野三山は格別でした。平安時代の中期から後期にかけて、天皇をはじめ多くの貴族たちが参拝していました。

修験道は、日本土着の神々への信仰(古神道)と仏教信仰を融合させた「神仏習合」の信仰です。なので、日本の神と仏教の神どちらも祀られます。

例えば、神仏が仮の姿で現れる「権現(ごんげん)」などの神格や参拝途中で儀礼を行う「王子」という場所があります。

修験道の歴史

飛鳥時代に、役小角(えん の おづぬ)が創設したとされています。ですが、役小角は伝説的な人物とされていて、本当にいたかどうかは今のところ分かりません。

彼は生涯出家せずに、世俗の生活を営みながら仏道を拠り所にする在家であったという言い伝えがあります。なので、開祖の習慣に従って在家主義を貫いています。

修験道は、平安時代からだんだんと人気になって行きました。その信仰の起源は、8世紀からの神仏習合の動きの中で見られます。その後も、神仏習合はだんだんと広まって行ったのです。

こういった動きと仏教の一派である密教天台宗真言宗)で行われていた山での修行、さらに日本古来の山に神がいるという山岳信仰とが結びついて出来たもの。それが、修験道だったのです。修験道は、このように密教との関りも深かったためか、仏教の一派と見られることもあります。

鎌倉時代後期から南北朝時代には、修験道は独自の立場を取り、修行者である山伏の数は増え組織化して行きます。特に有力だったのが、天台宗系本山派真言宗系当山派です。

武家からの介入も増え、江戸時代には幕府が『山伏法度(修験道法度)』を定めて、真言宗系と天台宗系のどちらかに属さねばなりませんでした。両派に属さない山伏もいました。

1868年の明治元年、神仏分離令に続き修験禁止令が出されて修験道は禁止されました。また、廃仏毀釈により修験道の信仰も破壊されました。

明治以降には、仏教色を薄めて教派神道となった者もいます。神仏習合のなごりも、教派神道から見ることが出来ます。

山伏とは?

修験道を信仰して、それを実践する者を修験者(しゅげんじゃ)または山伏(やまぶし)と言います。

日本各地の困難な霊山を歩きぬき、神の前で罪の告白をして、悔い改めるなどの大変厳しい修行を行なって、山岳が持つ霊力を身に付ける事が目的です。

山岳信仰を行う山のほとんどは、非日常かつ死後に魂が行くとされる「他界」に属するものです。山伏たちは、山岳という他界に住んで霊力を体に吸収します。

そして、あの世とこの世を繋ぐ者としての力を付けます。そうして付けた霊力を人々に授けたのです。

修験道が盛んな時代には、「先達」と呼ばれる山伏たちが信者をサポートしたり、ガイドをしたりとリーダー的な役割をしていました。

山伏は、頭に頭巾のような「頭襟(ときん)」と呼ばれる多角形の小さな帽子のようなものを身に付けます。そして、袈裟(けさ)篠懸(すずかけ)という麻の衣装を身にまとい、手には金属製の杖である「錫杖(しゃくじょう)」を持っていました。また、山中でお互いに連絡を取り合う為に、ほら貝を加工した楽器も持っていました。

天狗や烏天狗も、こうした格好を同じようにしていたようです。天狗については、別記事でまとめさせてもらったので、

天狗の正体とは?天狗の種類や性格プロフィールをご紹介!

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山伏の歴史

山岳信仰自体は、日本の原始時代からあったようです。伝来した仏教でも、山に入って修行する僧侶たちがいました。

そして、比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺のような山岳寺院も形成されました。さらに山奥に入って修行する僧侶もいまたほどです。

山伏の祖は飛鳥時代役小角(えん の おづぬ)とされていますが、平安時代中期の『新猿楽記(しんさるがくき)』に「山伏」という言葉は初めて登場します。

厳しい修行をする山伏には、人間を超越した力を持つと信じられていました。密教僧と同じように加持祈祷を依頼され、印を結んだり呪文を唱えました。

例えば、『宇治拾遺物語』には祈って渡し舟を呼び戻したという話があります。室町幕府の武将である細川政元(ほそかわ まさもと)は、魔法の修行に励み

侍画像

僧や山伏のようだ

と褒められていました。

山伏が山を修行して回る場合、待遇はかなり優遇されました。宿や食事は、民家や寺院の接待に頼り、関所の通行税や渡し舟の運賃は免除されました。

また、抜け道もよく知っていました。そのため、山伏が使者や道案内を務めたりしました。さらに、鎌倉時代から南北朝室町時代に、よく逃亡者や密使が山伏に偽装したりしました。源義経奥州へ逃げる際に、山伏のフリをしていたと伝えられています。

この修験道と山伏、実はユダヤ教徒の信仰と非常によく似ています。こういった、日本の古い神道と古代イスラエルが似ているという点は他にもまだまだあります。気になる方は、

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参考:修験道山伏