周の歴史とは?周王朝建国の立役者たちの4つのエピソード

周の歴史とは?周王朝建国の立役者たちの4つのエピソード

周(しゅう)は、中国古代の王朝です。中国最古の王朝である殷(いん)を倒して王朝を開きました。そんな殷の歴史について詳しく知りたい方は、

こちらの記事を先に読んでみて下さいませ。ここでは、個性豊かな周の王様たちを逸話を交えながらご紹介して行きます!

伝説上の周王朝の創始者

周には、伝説上の祖先がいます。それが、后稷(こうしょく)です。彼の母は、野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠したと言われています。

山田花子画像

さすが、伝説上の人物の逸話ですね!

そんな彼は農耕をこよなく愛し、農業に関する政策に功績がありました。そして、帝である舜(しゅん)に仕え、周に住み着いていたと言われています。

古公亶父の一言のインパクト

先代の王の一人である古公亶父(ここうたんぽ)の時代。彼には3人の息子がいました。3男の子供昌(しょう)が生まれた時に、様々な吉兆が起りこました。

古代中国では、こういった吉兆が起こると、その子は徳が高い気高い聖人だと考えられていました。実際に、後に昌は周の王「文王(ぶんのう)」となります。

こういった吉兆に、古公亶父は一言とつぶやきました。

古公亶父画像

昌の子孫が、我ら王朝を栄えさせてくれるのかのぅ

つまり、古公亶父は3男に跡を継がせる意思をちらつかせたのです。その考えを知った長男と次男は逃げ出します。

長男画像

やってらんね!

特に長男はそう思ったのでしょうか。長男は、その後に句呉(こうご)と名付けた国を興します。この国が、後に春秋時代に存在した「呉(ご)」となるのです。

周王朝の誕生までの流れ

さて、3男の息子昌(しょう)は古公亶父の期待通りめきめきと周の勢力を拡大して行きます。そして、殷の王様より

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そなたに、西の統括を任せる

と臣下として命じられます。この時、既に周の勢力は殷を抜いていました。しかし、文王(後の昌の名前)はあくまでも殷の臣下として従ったのです。

しかし、そんな時代も文王の息子である武王(ぶおう)の時代に終わりを迎えます。武王は弟たちの協力を得ながら、殷の暴君であった紂王(ちゅうおう)を倒します。そして、周王朝を建てたのです。

成王・康王の時代は天下泰平

殷王朝を倒した武王でしたが、彼は周王朝建国後、すぐに死んでしまいます。その後を継いだのが、成王(せいおう)です。彼が継いだ時にはまだ幼く、殷の残った勢力も侮れない状況でした。

周公旦画像

成王様はまだお若い。代わりに私が政務全般を行いましょう

と摂政として文王の4男であった周公旦(しゅうこうたん)が政治を見ることになりました。この摂政政治は、結果として成功します。

文王の息子である3男と5男は、周公旦が摂政となった後、

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あいつ、4男のくせに調子乗り過ぎじゃね?

と周公旦が政権を握ることに不満を持ちます。この不満を利用したのか、殷の最後の王紂王の息子と周公旦の兄弟たちが、共同で反乱を起こします。

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周公旦、この反乱を鎮圧せよ

と幼い成王は周公旦に命じます。そして、見事この反乱を鎮圧します。それから7年後に、

周公旦画像

成王様もご立派に成長なさいましたね。それでは、私はただの一臣下に戻らさせて頂きます

と摂政としての仕事を終えたのです。

成長した成王は周公旦を含めた優秀な臣下を持ちつつ、政務に取り組みました。その結果、古代中国東方の異民族であった東夷(とうい)を討伐して権力と威勢を示しました。

成王の後を継いだのが、康王(こうおう)です。彼の時代も、優秀な臣下を持ち安定した天下を治めました。

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この成王様と康王様の時代である40年間は、刑罰を用いることはなかった

と言われるほど、この2人の王の時代は天下泰平でありました。

ここまでが、周の最も輝かしい王朝のお話です。この時代以降は、だんだんと衰退して行き、遂には滅亡してしまうのです。そんな没落の道をたどる周の後半の歴史を知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さいませ。


参考: