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周王朝の西周と東周の歴史とは?周が衰えた4つの理由まとめ

周王朝の西周と東周の歴史とは?周が衰えた4つの理由まとめ

紀元前771年に、洛邑(らくゆう)に都を移します。その年を境にして、洛邑遷都以前を西周(せいしゅう)、それ以後を東周(とうしゅう)と分ける事が出来ます。

この時から周は、滅亡の一途を辿る運命にあったのです。ここでは、そんな周の後半エピソードをご紹介して行きます!

周が衰えた4つの理由とは?

周が栄えてから天下泰平の時代以降は、だんだんと周王朝は衰退して行きます。そんな周が建国されてから世が安定した時代までの歴史を知りたい方は、

こちらの記事を先に読んでみて下さいませ。

4代目の王は南方遠征を行いましたが、遠征途中に行方不明となり、失敗してしまいます。

山田花子画像

戦死したとも言われています。

周王朝が衰えた理由①

それ以降の周の軍事は攻めから守りとなり、5代目の王以降は王自ら戦争に行く遠征をする事さえもなくなりました。その代わりに、祭祀儀礼を行って軍事的に弱まった王の権威を補って行きました。

周王朝が衰えた理由②

6~9代目の王までは、影の薄い時代でした。この時期に礼儀の決まりが改められ、王が臣下を職務に任命する際に、臣下に対する周王室への忠誠心の維持を図りました。

山田花子画像

そして、これによりひとまずの安定を得たのです。

しかし、9代目の王の時代にありもしない噂により、王は斉(せい)という国の王を処刑してしまいました。この愚かな政治は次世代の周王たちへ引き継がれていったのです。

周王朝が衰えた理由③

10代目の王は、最悪でした。彼の代から周の完全な衰退を辿たっと言っても過言ではありません。彼は、

帝画像

ハハハ、全ての財は全て我のものだ———!!

と財を全て独占したのです。その財は、周りの地域を支配する臣下たちにも与えられるべきものでした。

人々画像

こんな王、最悪過ぎでしょ———!!

と臣下たちも不満爆発です。最終的に大反乱が起きてしまい、10代目王は遠くへ逃げ出してしまいます。

王がいなくなった後は、2人の大臣が執行機関を複数の人によって構成させる合議制で共に協力して政治を行いました。現代で言う君主を持たない「共和制」というのは、この説を由来としています。

やがて大臣らは11代目の王を選び、王をサポートしながら政治を行ったので、国の情勢は回復して行きました。

周王朝が衰えた理由④

しかし、そんな時代も後半期になって来ると、

帝画像

政治は飽きたわい

と11代目の王の時にも、また再び政治は衰退してしまいます。

そして、次の王である12代目王幽王(ゆうおう)の時代がやって来ます。この時代に、周は東西に分かれる大きなきっかけを作ってしまうのです。

傾国の美女を愛した幽王

古代中国史には、美貌によって国を滅亡にまで追いこむ魔性の女性がよく現れます。国が傾く原因になるほどの美女を「傾国の美女」と言います。

幽王は即位して間もない頃に、美女であった褒姒(ほうじ)にひとめぼれをしてしまいます。

しかし、褒姒はピクリとも笑わない美女でした。そんな彼女の笑顔見たさに、幽王は色々と手を尽くしました。

初めて笑った褒姒

ある日、王は緊急事態の知らせであるのろしを上げさせ太鼓を鳴らしました。多くの将軍は早速王のもとに駆けつけました。しかし、来てみると何事も無かったのです。

人々画像

え、何事?!ってか、何で何も無いの??

と将軍たちはうろたえます。それを見た褒姒は、

褒姒画像

あはは、何かおかしい。みんな凄い顔してるし(笑)

と初めて笑ったのです。そんな様子を見た幽王は、その後何度ものろしを上げさせました。しかし、その合図を信じる将軍はだんだんといなくなっていったのです。

全ては褒姒のために

さらに、王は人民にかなり不人気な臣下に政治を任せます。理由は、褒姒を大笑いさせたからです。

王の前では良い顔をするこの臣下の悪政に苦しんだ人民たちは、

人々画像

こんなくず野郎を選んだ王は馬鹿なのか?

と王を恨むようになって行きました。

そして、幽王はとうとう周の東西分裂の大きなきっかけを作ってしまいます。彼は褒姒を愛するがあまり、彼女を正妻である皇太后にして、彼女の息子を跡継ぎの太子にしてしまうのです。

山田花子画像

申(しん)という国から正妻として皇后を迎えていたにも関わらず、です!

これに対して、申の皇后の父親は怒り心頭です。

父親画像

われ舐めとんのか?!

と遊牧民と連合して幽王を攻め殺しました。この時、王はのろしを上げさせましたが、皮肉なことに誰一人として兵士は来なかったのです。

太子であった褒姒の息子も殺され、褒姒は捕らえられます。この反乱により、西周は滅亡してしまうのです。

東周と呼ばれる時代

父幽王の死後、申の皇后の息子である平王(へいおう)は、申で王として即位しました。

しかし、西周の都であった場所は戦乱によりめちゃくちゃになっていました。そこで、都を洛邑(らくゆう)に移し、そこから東周が始まったのです。

それ以降も、西周の都には叔父たちの反対勢力が存在していました。その反対勢力を平王は倒し、東西分裂していた周を東周が統一したのです。

そして、ここから古代中国における戦の時代『春秋時代』の幕開けとなります。続きのお話を知りたい方は、

ぜひ、こちらの記事を読んでみて下さいませ。


参考:褒ジ平王 (周)

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