春秋時代とは?周王と諸侯(覇者)たちの関係をざっくり解説

春秋時代とは?周王と諸侯(覇者)たちの関係をざっくり解説

春秋時代は、中国文明のにおける周王朝の後半期の時代です。周が東西に分裂した時期ですので、年数にするとおよそ320年間となります。春秋時代の名前は、歴史書『春秋』から由来しています。

周王朝が衰え、西周と東周に分かれる前の歴史を知りたい方は、

こちらの記事を先にお読み下さいませ。

周が東西に分裂してから王朝の勢力は衰えて行き、中国全土にあった臣下たちの200以上の領土は独立状態となってしまいます。そして、その領土間で争うようになったのです。

ただし、たとえ周王朝の勢力は衰えたとしても、権威は依然と重視されていたので、周王の代わりとして諸国を束ねる「覇者」の座に就く事が、諸侯(領土の支配者)たちの目標となりました。

鄭が周王を撃退?!

周は西周の都から東の都へと移りました。その時、この引っ越し作業に大きく貢献したのが鄭(てい)という国の武公(ぶこう)でした。

彼はその後も、大きな功績を残して行きました。それに対して、周王は

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ちょっと、調子乗り過ぎじゃないかのぅ

とちょっと嫌な気持ちになります。

武公の息子である荘公(そうこう)の代で、周王による討伐をついには受けることになります。しかし、その攻撃を荘公はなんと撃退してしまったのです。

この時に、1人の家臣が

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逃げる敵ですら追い打ちすべきでしょ、荘公様

と言いました。それに対して荘公は、

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一国の王にそれは良くないんじゃない?やめとこ

と答えました。この話は、周王の権力がもはや失われていることを表している一方で、領土を支配する臣下である諸侯が未だ周王への敬意を抱いていることも表しています。

しかし、ここから荘公以降の鄭は目立たなくなって行きます。元々の国力が中の下程度だったからです。

一方、周王に敬意を払っていた他の諸侯たちは、

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え、周があの鄭に負けた?じゃあ、俺たちも少しくらい好き勝手できるよね♪

と独自の政治・軍事的な動きを見せ始めます。

そんな中、周王室内では何度も王位継承争いが起きていました。それが原因か、周の力は他の国々よりも衰退していったのです。

斉の桓公が覇者となる

鄭の次に覇権を握るのが斉(せい)という国です。周の元軍師であった太公望を始めの祖先とする斉は、東の地域を大きく広げ国力を上げました。

しかし、15代目の王の死後に後継ぎ争いで国内が混乱しました。その内乱を治めたのが、桓公(かんこう)とその君主を補佐する宰相(さいしょう)であった管仲(かんちゅう)でした。彼らの活躍により、斉は大きく飛躍します。

一方、この当時国として勢力を上げて来たのが楚(そ)でした。楚は周りの小国を呑み込んで、さらに侵攻する気配を見せていました。

斉の親玉である周に頼ろうと思っても、この時もまだ王室内で権力争いを続けている有様でした。

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最近の楚の勢いは凄いですね、降参です

と楚を恐れた小国の人々は、仕方なく服従したのです。

しかし、斉に救世主が現れます。それが、桓公でした。桓公は楚に対抗したので、小国の人々は

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おぉ…、桓公やるではないか!!俺たちを助けてくれぃ~~~

と助けを求めます。そして、桓公は楚と対決するのです。

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楚よ。そなたらの行いは周に対して無礼であるぞ。これより、それ以上の進みを即刻止めるのだ

と楚の侵攻を本当に抑えてしまうのです。

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すげぇよ桓公!我らの盟主にバンザーイ、バンザーイ!!

と他の諸侯たちが、桓公をリーダーとして担ぎ上げます。事実、桓公は周王に代わって、諸侯のための同盟の儀式で取り決めなんかも行いました。

こういった業績により、桓公は覇者と呼ばれ、春秋五覇の第一に数えられるようになります。そんな桓公についてさらに詳しく知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さいませ。

斉の覇権は黄河流域にとどまり、楚が長江流域で勢力を振るうのを止める力はありませんでした。なので、楚との争いはそれ以降も続くこととなるのです。

宋の襄公が楚に敗れる

覇者の一人であった桓公の相棒管仲が亡くなると、桓公は人が変わったかのように堕落して行きます。

山田花子画像

そんなに管仲という人物は凄かったのですね!

管仲についてさらに詳しく知りたい方は、

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落ちぶれた桓公により国は乱れ、彼の死後には後継ぎ争いにより斉は急速に覇権の座から転落してしまいます。

襄公画像

フフフ、この次は俺の番じゃけん

と名乗りを上げたのが宋(そう)襄公(じょうこう)です。

の生き残りが住む国であった宋の国力は中程度でした。

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あの桓公の後を継いで天下治めるんは、俺しかおらんけん

という高い志を抱いていました。

斉の後継ぎ争いに介入したり、桓公のような諸侯の盟主になるために同盟の儀式である会盟を開いたりしました。

しかし、この儀式で襄公を気に食わない者がいました。それが、楚の重臣です。

楚の重臣画像

あんな奴に主導権を握られてたまるか…!!

と思い、なんと同盟の席で襄公を監禁してしまうのです。襄公の盟主としての面目が丸つぶれです。

この屈辱を晴らすために、襄公は楚と決戦に及びます。楚の方が圧倒的な大軍であったにも関わらず、楚の陣形が整わなかったりと、攻撃のチャンスが幾度かありました。

しかし、襄公は

襄公画像

君子は人が困っている時に付け込んだりはしないもんじゃけん

と言って、ズルせず正当に戦って、正当に敗北しました。なので、彼は覇権者になることは出来なかったのです。

晋の文公が覇者となる

襄公の代わりに第二の覇者となったのが、晋(しん)文公(ぶんこう)でした。

彼は初めから成功した偉人ではありません。大きく発展していた晋という国が、当時晋の王であった献公(けんこう)のお気に入りの妾(めかけ)が起こした騒動により、国力が低下しました。

妾の名前は、驪姫(りき)と言います。彼女は自分の息子を何とか後継ぎにしようと君主である献公を操ります。

驪姫画像

ねぇ、けんちゃん、あなたの他の息子ちゃんたち色々と問題起こしてくれちゃってるわよぅ!ねぇ、殺しちゃいましょうよ♡

そんな驪姫の言葉をまんまと聞いてしまい、献公は次々と自分の息子たちに自殺を迫ります。この様子を見た文公は、

文公画像

ただ事じゃない…!!

と国外へ逃亡したのです。そして、異国での生活が10数年に渡り、苦労の果てに辿り着いたのが隣国の秦(しん)でした。文公は最終的に秦の力を借りて、新たな晋の君主となったのです。

ここからの文公の活躍は目覚ましいものがあります。まず、周王室の内紛を収め、あの暴れん坊な楚との戦いでも大勝ちし、周王を招き会盟を開いて諸侯の盟主となったのです。

ここで、文公は桓公と並ぶ春秋五覇の1人となります。さらに、文公について知りたい方は、

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秦の穆公が覇者となる

文公と前後して活躍したのが、穆公(ぼくこう)です。

穆公は遊牧民族と戦って勝利したり、国政を補佐する宰相に他国出身者を積極的に起用したりしました。そして、小国を併合して領土を拡大して行ったのです。

前の晋の話に戻るのですが、文公の父である献公が死んだ後、後継ぎ争いで揉めます。

そこで、秦の穆公に助け舟を出した人物がいます。それが、文公の弟である恵公(けいこう)でした。

恵公画像

ぼく、晋の君主にきっとなるよ!だから、助けて穆公様

と言われた穆公は考えます。

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ふむ。本当は恵公の兄(後の文公)の方が性格的に好きなんだがな。しかし、彼は君主の座には興味が無さそうだ、ふむ。ここは、出来損ないの弟の味方をすれば、私にも有利になることだろう

と考え、恵公を晋の君主にさせます。ここで恵公は、

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穆公様ありがとうございます!お礼に、領土をいくらか差し上げますね♪

と約束しましたが、見事にその約束を破ります。そして、晋国内で悪政を行ったのです。

そんな恵公が君主である晋では、ある日不作による食糧不足が起こりました。そして、へ助けを求めます。

家臣たちは、

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領土割譲の約束を破った恵公に何も送ってやる必要はないですよ、穆公様

と反対しましたが、穆公は

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恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無いのだ、うむ

と大量の食糧を晋に送ったのです。

その翌年に今度はが不作となりました。今度は、穆公が晋に助けを求めます。しかし、恵公は

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食糧?何でそんなの送らなきゃいけないの?それよりも、秦が弱ってるチャンスじゃん♪攻め込んじゃえ!

と本当に秦に攻め込みます。これには、穆公もさすがに激怒します。そして、晋を完膚なきまでに叩きのめして勝利するのです。

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やはり、兄が君主になるべきだったか

と穆公は文公を即位させました。この時のと晋の関係は良好だったようです。しかし、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公は晋をまた打ちのめします。

そんな穆公でしたが、亡くなってしまいました。彼の凄いところは、亡くなった後も秦の国勢を揺れ動かしたところです。

穆公が死んだ後、何と家臣177名が殉死しました。この殉死により、の国力は著しく低下し、は大きく落ちぶれてしまうのです。

楚の荘王が覇者となる

次に覇権を握るのが楚の荘王(そうおう)でした。

楚は、元々周から与えられた領土を支配する諸侯がいる国ではありませんでした。実力で他の領土を確保して建設した国なので、他の諸侯たちから王として認知されてませんでした。

その後に、周から一応称号は与えられるのですが、

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これだけ国力があるのに、何だこの位は!低すぎるだろ。なので、自ら王と名乗っちゃいまーす

と荘王は自称王と名乗り始まるのです。そんなプライドの高い荘王ですが、実力もきちんと伴っていました。

今まで楚の朝廷にはびこっていた出来の悪い臣下たちを一掃し、有能な人材を採用して行きます。国内整備がばっちりの楚は、豊富な兵力を持って次々と小国を従わせて、遂には周王室にも圧力をかけました。

そんな荘王には、たくさんのカッコ良い逸話がまだまだあります。さらに詳しく知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さいませ。

小国外交の中期

中期になると、領土の支配者であった諸侯同士の争いは少なくなって行きました。なぜなら、諸侯の下にいた中級から下級の貴族階級の力が盛んになり、実権を握り始めたからです。

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他国と争ってる場合じゃねぇ!

と諸侯たちは、国内の貴族たちとの争いに忙しくなって行くのです。

諸国の実権を握った代表的な貴族たちもいます。その貴族たちは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもありました。さらに、君主とも対立して殺害することもあったのです。

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こういった現象は、身分体制の崩壊の現れですね。

国内の揉め事の方に気を取られる国が多かったので、国同士の戦いはあまり望まれませんでした。その代表的なものに、晋(しん)と楚(そ)の間で

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戦いを止めよう

という会が開かれたほどです。

また、国政を補佐する名宰相(めいさいしょう)と呼ばれる者が多く登場します。代表的な人物の詳しい記事がありますので、

こちらもぜひ併せてお読み下さいませ。

他にも、大国同士の直接対決が避けられたので、小国外交が活発になりました。この時に活躍したのが孔子です。孔子についてさらに詳しく知りたい方は、

こちらの記事も併せてお読み下さいませ。

孔子と同時代に活躍した政治家がいました。それが、子産(しさん)です。彼は、文字によって記された中国初の成文法(法律)を制定したことで有名です。

この時代の中国の法律は、上流階級の中で暗黙の了解で行われていました。しかし、新しく力を付けて来た貴族たちにはそれが不満でした。なので、法律を形に残るようにしたのだと考えられています。

後期は呉越抗争

南の長江流域では、呉(ご)越(えつ)の2つの国が勢いを増しました。これらの国の代表的な人物や出来事については、以下の記事を参考にしてみて下さい。

呉は楚→越→晋の順に争いました。しかし、ここで屈服したはずの越が入念な準備の基に、呉に反撃して滅ぼしてしまうのです。その後、越は楚に滅ぼされました。

一方、晋は魏(ぎ)・韓(かん)・趙(ちょう)の3氏の連合により滅ぼされます。この氏の当主たちは、さらに力を付けてそれぞれの魏・韓・趙の国を建てました。この3つを合わせて「三晋(さんしん)」と呼びます。

その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められます。この時代までを春秋時代として、その後は戦国時代となります。

ちなみに、斉(せい)はほぼ完全に田氏(でんし)という人物に政治を支配されてしまい、滅びてしまいます。これ以降の斉をそれまでと区別して田斉(でんせい)と呼びます。

春秋時代の戦い方

春秋時代は軍のルールがきっちりと決められており、なかなか一国が大軍を持つことは出来ませんでした。大国は3万人以上の軍を持つ事が出来ましたが、はその倍以上の6万人以上の兵を持つ事が出来ました。

山田花子画像

そんな周ですが、春秋時代から急速に衰えたので、6万人以上の兵を持つことは出来ませんでしたけどね。

それぞれの国の力により、決められた数の兵士を持つ事に同意出来たのには、2つの理由があります。

一つ目は、周王を純粋に尊敬していたことです。この尊ぶ心があったからこそ、軍におけるルールを守ることが出来たのです。

二つ目は、この時代の鉄問題にあります。春秋時代には鉄が使われていなかったので、鉄製農具がなく生産性が低かったのです。

なので、人口も戦国時代の時よりもかなり少なく、長期間の戦争は国力を大きく下げる原因となりました。つまり、国力により軍の数が決められていた方が、短期的な戦争を無理せず行う事が出来たのです。

春秋時代には、独特の戦争形式がありました。外での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、

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ハハハ、お前らの国を潰しちゃうぞ?

というような戯言(たわごと)を言ったり、勇ましさを示したりしました。これに相手も返答して、勇ましさを示した相手を追いかけ始めたら戦争開始となりました。

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不意打ちの奇襲攻撃は無礼だったんです!

特にこの春秋時代では、双方の「」が重んじられました。相手側に酒を送ることもあったほどです。

山田花子画像

戦争にしては、随分とのんびりしていたようですね。

しかし、戦国時代以降はこのような「礼」も無くなっていったのです。そんな戦国時代について、さらに詳しく知りたい方は、

中国の『戦国時代』とは?歴史の流れをエピソード風に解説

こちらの記事を次にお読み下さいませ。


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参考:『春秋時代』・『襄公 (宋)』・『文公 (晋)』・『穆公 (秦)