太陰太陽暦とは?簡単に分かり易く意味と歴史の流れを解説!

太陰太陽暦とは?簡単に分かり易く意味と歴史の流れを解説!

太陰太陽暦は太陰暦が基です。太陽の動きも参考にして閏月を入れます。季節は多少ずれますが、何とか月と季節を一致させています。

東アジアでは、太陰暦や陰暦と言う場合、太陰太陽暦を意味することが多いです。そんな東アジアでも、今では太陰太陽暦を使っている国はありません。

太陰暦と太陽暦の要素を組み合わせた太陰太陽暦。その意味や使用された歴史の流れについて解説して行きます。それでは、見て行きましょう!

太陰太陽暦とは?

紀元前の古代では、月の満ち欠けが重要でした。その満ち欠けの繰り返しから、「太陰暦」を生み出したのです。太陰暦を使うと、1年が約354日になってしまいます。

太陽暦よりも、段々とずれていってしまうのです。このずれを放っておくと、暦と季節が大きく違ってくるので、「閏月(うるうづき)」を足しました。この月を足すと、1年は13ヵ月になりました。そして、それで何とか季節のずれを正そうとしたのです。

このように、太陰暦がベースですが、そこに太陽暦の要素も取り入れているのが太陰太陽暦です。

さらに、太陰暦と太陽暦の違いについて詳しく知りたい方は、

こちらの記事も読んでみて下さい。

イスラム暦(ヒジュラ暦)では今でも太陰暦を採用しています。この暦との区別の意味でも、太陰太陽暦は使われています。

太陰太陽暦の閏月

古代では天体観測の時に、

古代の人画像

閏月っていつ入れるの?

という疑問が湧きました。その後に、メトン周期が発見されました。そこから、閏月の入れる時期は決められるようになたのです。

やがて、古代ローマではユリウス・カエサルが暦を太陽暦に切り替えます。ヨーロッパ中世では、グレゴリオ暦がポピュラーとなり、イスラム圏以外で採用されます。そして、現在に至るのです。

ヨーロッパでは太陽暦を使うようになった一方、中国や日本などの東アジアでは太陰太陽暦がそのまま使われ続けました。閏月を入れるため、二十四節気が用いられました。

しかし、閏年の有り無しによって日数の違いが出るので、現在は太陰太陽暦を正式に使っている国はありません。

日本では、明治5年に太陰太陽暦から太陽暦に切り替わりました。中国では、太陰太陽暦に基づく新年(春節)などが現在でも祝われています。

ちなみに、古代バビロンとインドの太陰太陽暦は、二十四節気ではなく黄道十二宮によって閏月を暦に入れていました。この黄道十二宮に基づいて、太陽の位置を計算して、閏月を暦に置いたのです。

古代の暦の運用方法

メソポタミア文明の祖であるシュメール人が、世界で初めて太陰暦を使用しました。しかし、彼らが暦と季節のずれをどう正したのかはよく分かっていません。

バビロニアでは、太陰太陽暦を使用していました。バビロニア初期の頃は、暦や季節のずれを適当な日数や閏月を足して済ませていました。

やがて、19年の間に7回閏月を入れるとほぼ間違いなく暦を運用できるメトン周期に気付いたのです。ちなみに、メトンとは、バビロンでこの原理を知り、ギリシアに持ち帰った天文学者の名前に由来しています。

このメトン周期は、その後世界中で知れ渡る事になります。例えば、古代中国です。の時代には、暦と季節のずれの対策として、12月の次に1月足して13ヵ月にしていました。しかし、春秋時代にはメトン周期をベースに閏月を暦に置いています。

古代ギリシャの暦も、このメトン周期の影響を受けたと言われています。新バビロニア王国の暦は、バビロン捕囚の中でユダヤ人に受け継がれました。そして、現在のユダヤ暦に引き継がれています。

しかし、イスラムのヒジュラ暦や太陽暦(イラン暦、ルーミー暦など)が使用されるようになって、ユダヤ人社会以外の西アジアで太陰太陽暦が使用されることはなくなりました。

中国の太陰太陽暦

まず、古代中国では太陰暦が使われ、暦と季節のずれは閏月によって正されました。この閏月は、「冬至」を基準にして定めることが多かったようです。

冬至の日を1年の始まりとして、冬至が含まれる月を天体観測により決めます。暦をそのまま使い続けると、冬至が再び来る日数はより短くなります。

山田花子画像

太陰暦の影響ですね。

そうすると、決められた月にきちんと冬至が来なくなります。そうすれば、その年を閏月の入る年にします。年末に閏月を置き、1年を13ヵ月としたのです。

やがて、中国でもメトン周期が知られるようになります。この原理により、閏月は19年の間に7回となりました。しかし、この周期でも若干の誤差がありました。長くこの暦を使い続けると、暦と季節に大きなずれが生じたのです。

山田花子画像

ただし、当時の人々はそこに気付いていました!

暦に閏月の入れる割合を減らすという対策を採ったのです。ただ、これだと年によっては1か月も暦が実際の季節からずれることもありました。

その対応策として、二十四節気が用いられたのです。これは、地球が太陽を1周する日数を24等分(約15日)に分けたものです。約15日ごとに季節の名前を付けて、節気(正節)と中気が交互に来るようにしています。その二十四節気を、実際の季節の目安にしたのです。

暦と季節のずれが蓄積されていくと、中気を含まない月が出て来ます。その月を閏月として、月名はその月に含まれる中気によって決めました。

この閏月を置く二十四節気によって、暦と季節のずれをおよそ半月程度に抑えることが出来るようになりました。

そんな中国の太陰太陽暦に変化が生じます。1911年、南京に中華民国臨時政府が起ります。この年に、太陽暦(グレゴリオ暦)に改めました。

しかし、太陰太陽暦に慣れ親しんできた国民は、なかなか太陽暦を使おうとしませんでした。なんとか今では定着して来ましたが、今でも太陰太陽暦に基づく新年が祝われています。

山田花子画像

中国の新年が、一般的な新年とずれているのはこのためだったんですね。

日本の太陰太陽暦

日本では飛鳥時代以降、中国王朝が制定した暦をそのまま導入して、日本独自の和暦として使用しました。

和暦とは、元号とそれに続く年数によって年を表現する方法です。今でも使われています。例えば、「平成」や「令和」とかです。

しかし、江戸時代の「宣明暦」は、なんと800年も使用し続けたのです。

山田花子画像

長っ!!

こんなに長く暦を使ったため、太陽の運行予測に約2日のずれが生じました。

武士画像

これじゃいかん!

と思ったのでしょう。渋川春海(しぶかわはるみ)の意見によって、あくまで中国の暦ベースである日本独自の太陰太陽暦の改暦を実現しました。この時の和暦名は、「貞享暦」です。それ以降は、この太陰太陽暦を使う習慣が根付きます。

しかし、明治の初めに政府が「太陽暦」に切り替える太政官布告を出しました。グレゴリオ暦に基づき、明治5年12月3日を明治6年1月1日としました。ここで、太陰太陽暦の歴史は幕を閉じたのです。

ただ、このグレゴリオ暦になる以前の明治4年までの年を、正確に算出するには注意が必要です。例えば、太陰太陽暦の年末の場合、西暦では既に新年を迎えて次の年になっているのです。

山田花子画像

ややこしいですが、日本史の年表を見る時には注意が必要ですね。

古代メソポタミアや東アジアで主に使われいた太陰太陽暦。日本でも身近な暦であったことにビックリです。歴史で習う暦の基本については、これでもうバッチリですよね?


参考:太陰太陽暦