アッシリアとは現在のイラク北部を占める地域でした。
つまり、メソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部はバビロニアと呼ばれていました。
最終的に、アッシリアはメソポタミア・シリア・エジプトを含んだ世界帝国を築き、王権や社会に影響を与えたのです。
初期アッシリアから中アッシリア時代の歴史についてさらに詳しく知りたい方は、
アッシリアとは?中央集権を生んだ歴史を分かりやすく解説!
アッシリアの国家制度が、強大な王国へと変えた、と言っても過言ではありません。メソポタミア文明の中でも、力のあったバビロニアを支配するまでになります。果たして、その歴史とはいかに?
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アッシリアは歴史上、周囲の覇権を拡大していた時もあれば、大国の覇権下に屈していた時期もあります。
しかし、その中でも珍しく中央集権的な国家体制を維持していました。
鉄器時代には「新アッシリア王国」と呼ばれ、現在で言うところの中東とエジプトであるオリエント全域を征服する大帝国となりました。
この大帝国が滅んだ後も、
アッシリアの中央集権的な統治制度の技術は素晴らしい…!
と他の帝国に受け継がれたのです。
そんな新アッシリア帝国はどのようにして滅んだのでしょうか?
新アッシリア時代は帝国時代
アッシリアの時代の中で、新アッシリア時代が最も記録史料が豊富です。
また、占星術などの記録が豊富に残っているので、天文学的見地から非常に正確な年代確定も可能です。
だからこそ分かった、新アッシリアの特徴について詳しくまとめてみました。
アッシリアの大量捕囚政策
中アッシリア時代に起きた混乱が収められた後、
よっしゃ、どんどん遠征に行ってやるぜ!
とアッシリアの王達は次々に領土を拡大して行きました。
この帝国を維持するために、民の強制移住を行った大量捕囚政策があります。
強制移住政策自体はオリエント世界にもよく見られました。
ですが、アッシリアのは規模が違いました。
アッシリアの支配は武力による強い統治だけではなく、征服地の文化や言語、宗教や政治体制をしっかりと理解して統治しました。
この統治政策はアッシリア以降に登場した
のような広い地域を統治した帝国にも継承されました。
その典型的な捕囚政策の例が「バビロン捕囚」です。
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アッシリアとバビロニアの関係
こんな帝国支配の中でもバビロニアは別格でした。
アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあったようです。
こんな柔軟性のある統治政策も、アッシリアの高度に発達した官僚制度が支えていたからこそ出来たことです。
ですが、問題もありバビロニアを完全征服しても、
何でお前たちアッシリアの言う事聞かなきゃなんねぇんだよ!
と事あるごとにバビロニア人たちは反乱を起こしたので、
バビロニアの力強すぎ…!困ったなぁ(汗)
とアッシリア王たちを悩ませ続けたのです。
そんなアッシリア王たちも一目置いていたバビロニアの歴史について詳しく知りたい方は、
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アッシリア帝国の収入源まとめ
新アッシリア時代の経済は王や高級官僚などに関係したものに偏っていて、民間の経済は謎な部分が多いようです。
ですが、分かっているアッシリア帝国の主な収入源は以下となります。
- 税収や関税(農産物やわらなど)
- 属国からの貢ぎ物
- 遠征時の略奪で得た戦利品
- 一定期間の労役義務(軍務もあり)
労役義務は最も基本的な税源となりました。
労働力は何も労役だけでなく、戦利品として獲得した奴隷の存在も大きかったようです。
例えば、奴隷の多くは歴代アッシリア王が行った大規模建築の数々の労働力となりました。
アッシリア帝国の軍事事情まとめ
アッシリア軍の特徴をまとめてみると以下になります。
- 中央軍(王の直属)と地方軍に分かれていた
- 中央軍が王の代わりに指揮をとることもあった
- 部隊編成の構成(特に弓兵の多用)
- 盾兵(大型の盾を持つ部隊)と弓兵はセット
- 鉄の武器や軍馬(馬具なし)を使った騎兵
兵員数の数は20万とも5万人とも言われていて、正確な数字は分かっていません。
ですが、シリア地方の諸国家の軍がおよそ10~100人規模で記録されていることを考えれば、
当時としては圧倒的な兵員数であった
と言えるでしょう。
『ニネヴェの戦い』から滅亡まで
そんなアッシリア滅亡の時。
衰退の原因は未だに分かっていません。
王家の内紛かもしれないし、統治システムの問題かもしれません。
ですが、その原因により次々に起きる反乱を抑える事が出来なくなっていきました。
新バビロニアが独立して、その反乱の勢いはさらに増しました。
ついに、新バビロニアなどの攻撃を受けてアッシリアの首都ニネヴェが陥落してしまいます。
これを「ニネヴェの戦い」と言います。
それ以降も、エジプト王と同盟を結んで新バビロニアと戦うのですが、この最後の戦いをきっかけにアッシリアは滅亡してしまいます。
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アッシリア帝国滅亡後のその後
アッシリア帝国滅亡後もアッシリア人たちは生き残り続けました。
アッシリア人自身が支配者になる事は二度とありませんでしたが、役人として活躍はしていたようです。
その証拠にアッシリア人が好んで名前に使った神の名を持つ人名が記録されています。
また、中近東のキリスト教徒たちはよく古代オリエントの民族を話題に持ち出します。
なぜなら、アッシリアの歴史は旧約聖書やギリシア人達の記録によってわずかに後世に伝えられたからです。
俺たちはアッシリアの末裔だ!
と主張する人たちもいるほどです。
しかし、現代アッシリア人と本当に生き残ったアッシリア人の見分け方について実際はあいまいです。
アッシリアと旧約聖書の関係
アッシリアについて分かる数少ない文献の1つである旧約聖書の中で、
イスラエルにとって外敵
としてアッシリアは書かれています。
なぜそう書かれているのかというと、以下のように旧約聖書の中で書かれているからです。
- イスラエルとユダ王がアッシリア王に貢物を贈って災いを免れたこと
- イスラエル人達が各地に強制移住させられたこと
- 入れ替わりにバビロニアなどに移住させられたこと
そんな敵として描かれたアッシリアに対して、
アッシリアに罰を下せ。彼らを恐れてはならない
と『イザヤ書』の中で神がアッシリアに罰を下すであろうことが書かれています。
また、アッシリアの滅亡についての預言もされていたようです。
他にもメソポタミア文明には、まだまだ数多くの歴史があります。
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参考:『アッシリア』