晋(しん)の文公(ぶんこう)は斉(せい)の桓公(かんこう)と並んで中国春秋時代の覇者として有名です。
斉の桓公、そして晋の文公を並べて斉桓晋文と称されることもあります。
ここでは晋の文公の人生を見ていきたいと思います。
斉の桓公については別記事がございますので、よろしければそちらもご覧いただけたらと思います。
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重耳(ちょうじ)、跡継ぎ争いにまきこまれる
晋の文公は元々の名前を重耳(ちょうじ)と言います。
重耳の父親である献公(けんこう)は重耳の他に異母兄弟である申生(しんせい)、夷吾(いご)がいました。
この三人はどちらとも名声高かったのですが、献公の寵姫(簡単に言えばお気に入りの愛人といったところでしょうか)であった驪姫(りき)が自分の息子にどうしても跡を継がせたいと思ってしまいました。
そこでとある陰謀を企てます。
申生が献公を毒殺しようとしたわ!なんと恐ろしい!
あろうことか驪姫は申生を父親毒殺未遂の汚名をきせて、そのまま自殺させてしまったのです。
重耳に対しても自殺を迫ったようですが、重耳は母親の故郷へと逃亡します。
異母弟であった夷吾もまた国外へと亡命しました。
重耳、亡命する
重耳(ちょうじ)が自らの命の危機を感じて国外へ逃亡した時、彼は四十三歳でした。
この亡命先であった地で重耳は妻を娶ります。
重耳が亡命して五年目の時、父親である献公が亡くなりました。
そして驪姫の思い通りに彼女の息子がその跡を継ぎました。
しかしその直後にクーデターが起こり、驪姫ともども皆殺しにあってしまいます。
クーデター軍より、重耳に
晋公(晋の王様)になってくれませんか?
と要請を受けていましたが、
いや、そんなこと言って殺すつもりでしょ!俺は騙されないぜ!
と断りました。
そのためその話をそのまま異母弟であった夷吾に引き継がれ、晋公の座は夷吾となり、恵公(けいこう)へと名前を変えました。
しかし、恵公は重耳を恐れました。
重耳は国民の人気も高いし、これは後々やっかいな奴になるぞ。よし、今のうちに始末しておこう
そして、恵公は重耳の側近たちを次々に追放していきました。
その様子を見ていた重耳は
このまま晋に近い小国にいたら、俺はきっと殺されてしまう。よし、東の大国である斉へ行こう。今なら名宰相と言われた管仲も死んだことだし、きっと人材を求めているだろう
こうして重耳は東へと旅立って行くのです。
ちなみに名宰相の管仲について気になる方はこちらの記事も合わせてお読みください。
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重耳、放浪する
ここから重耳は様々な国を転々とする放浪時代へと入っていきます。
それは必ずしも素晴らしいことばかりではない放浪の旅でした。
衛(えい)
重耳は斉を目指す前に、衛(えい)へと立ち寄りました。
しかしこの衛で凄まじい冷遇を受けるのです。
重耳たちが食料が尽きてしまい、地元の農民に食料を乞うたところ、農民たちは器に土を盛って出しました。
なんじゃこりゃー!
と重耳は激怒しますが、部下になだめられます。
斉(せい)
衛で冷遇を受けるものの、重耳たちは無事に斉にたどりつきます。
斉の桓公は重耳を歓迎し、80頭の馬を贈り、自らの娘である斉姜(せいきょう)を妻に取らせました。
重耳が斉に着いてから五年が経つと、その間に桓公が死んだため、後継者争いによる内乱が起きるようになりました。
すると重耳の部下である狐偃(こえん)が重耳を斉から連れ出すことを計画します。
しかし、この計画を斉姜の侍女が盗み聞きしてしまうのです。
奥様大変です!狐偃が旦那様を斉から出そうとしています!
…そう。申し訳ないけれど、あなたの口を封じさせてもらうわね
斉姜に告げ口した侍女はなんと斉姜に殺されてしまうのです。
斉姜は彼女から重耳が国外に逃亡するという情報が漏れてしまうのを防ぎたかったようです。
あなた、逃げてください
斉姜は重耳に国外に逃げるように訴えますが、重耳はその重い腰をあげようとはしませんでした。
そこで、斉姜は狐偃と一緒に重耳を騙し、お酒を無理矢理飲ませて酔わせ、無理矢理斉から連れ出しました。
酔いがさめた重耳はブチ切れ。
狐偃を殺そうとします。
すると狐偃は言います。
私を殺してあなたの大業が叶うのであれば望むところです
重耳は
事が成らなかったらお前を殺して肉を食ってやる
と言うと、
事が成らなかった時には、すでに私の肉は生臭くなって食べられたものではないでしょう。(事が成らなかったら殺される前に責任をとって自殺しますという意味)
と狐偃は言い返しました。
こうして重耳は斉からまた出て行くことになるのでした。
曹(そう)
斉を出た重耳は曹に入ります。
しかし、重耳が「一枚あばら」(肋骨に隙間のない特異体質)であることを聞きつけた人が重耳に裸を見せるよう言ったという無礼な扱いを受けたため、すぐに出国します。
宋(そう)
宋は泓水(おうすい)の戦いという戦いに敗れたばかりでしたが、重耳に対して丁寧に迎え、桓公と同じように80頭の馬を贈り歓迎しました。
しかし、現状の宋に余裕はないため、重耳は楚(そ)に向かうことにします。
楚(そ)
楚の王は重耳を丁寧にもてなしたうえで、悪戯心からとある質問をします。
もし貴方が国に帰り、晋の君主になることができたら、私に何をしてくれますか?
すると重耳はこう答えました。
もしあなたと戦争をすることになったら、軍を三舎(軍が3日で行軍する距離)退かせましょう
重耳のこの答えに生意気だと楚の家臣が殺そうとしましたが、楚の王がそれを止めたとされています。
重耳、文公となる
晋で王様となっていた恵公が死ぬと、秦(しん)に人質となっていたはずの重耳の叔父であった太子圉がなんと秦から逃げ出し、そのまま新たな晋公の座に就きました。
これを面白く思わなかったのが秦の人々です。
えっ、何人質が勝手に逃げて、他国の王になっちゃってんの?舐めてる?
となり、重耳を晋公にしようとする動きが出来ました。
また、晋の内部からも重耳を望む声もあり、重耳は秦軍と共に、晋に入りました。
晋軍は秦軍を迎えましたが、評判の悪い晋公に集まった軍は少なく、戦ったのは側近の軍のみだったと言われています。
そして、遂に重耳は晋公となり、文公の名をもらいました。
実にこの時六十二歳でした。
晋公の在位は9年間ととても短かったですが、晋を安定させたその功績は覇者の名にふさわしく、桓公と並んで春秋覇者の筆頭に数えられます。
参考:文公 (晋)