孔子とは?儒家の始祖の生い立ちから学ぶ人生の生き方まとめ

孔子とは?儒家の始祖の生い立ちから学ぶ人生の生き方まとめ

儒教の祖として有名な孔子

彼の思想は世界で広がっていますが、孔子の人生とは一体どのようなものだったのでしょうか。

詳しく見て行きましょう!

幼少期

孔子は父である叔梁紇(しゅくりょうこつ)と母である顔徴在(がんちょうざい)の間に生まれた子でした。

父はなんと既に70歳を超えていました。それに対して母はわずか16歳の身分の低い巫女でした。

70歳と16歳の歳の差…。ジェネレーションギャップどころじゃなさそうですね…。

論語』の中で詳細な記述はなく、歴史書である『史記』には叔梁紇が顔徴在との不正規な関係から孔子が生まれたとも記述されているようです。

また、母親の顔徴在が

顔徴在画像

夫ともだいぶ歳が離れているし、子どもが出来るか心配だわ…

と思い、山で祈って子ども(孔子)を得たとの逸話もあります。

とにかく出自に関しては色々と諸説があるようですが、いずれにしても孔子の身分は決して高かったわけではなかったようです。

そんな孔子は3歳の時には父親を、そして17歳の時には母親をも失ってしまい、その後は孤児として育ちました。

なかなかの不運。そして苦労人な孔子…。しかしながら勉強には大変勤しんでいたようです。

青年期

その後、孔子は19歳の時に幵官(けんかん)氏と結婚します。

匿名画像

えっ、孔子って奥さんいたの!?

とびっくりですが、どうやらいたようです。しかしながら、この奥さんに関してはほとんど何も分かっていません。

結婚して翌年に子どもである鯉(り)を産んだことくらいしか分かっていません。

この子どもの鯉についても詳細はあまりなく、彼は50歳になると孔子よりも先に亡くなってしまいます。

28歳の孔子はこの頃までに(ろ)の役人として働いていました。まずは倉庫を管理する仕事、次に牧場を管理する仕事をしていたようです。

孔子は巫女であった母親の仕事の影響を受けて、文字を知り、礼法を知り、そして知識によって生きて行こうと決心して、村の役人になることができました。

しかし、その礼法はあくまで祈祷師としてのものであり、社会全般や国家としてのものではありませんでした。そのため、孔子は天下に通ずる礼、伝統的に守り続けられてきた礼法を学ぶために、必死になって各地を訪れ、知識人にあっては自分なりに整理し、体系づけていったのでしょう。

この努力こそが後の孔子の土台となっていったのです。

そして孔子が35歳の時にはじめて弟子をとった記録が残ってます。

晩年期

孔子はその後、最高裁判官に就任したり、外交官になったり出世していきます。

しかし、あまり上手くいかなかったようです。

外交官になってわずか数年で役人を辞め、弟子とともに色々な国を巡る旅にでます。

この旅は実に13年間も続きます。この時の孔子はとっくに50歳は超えていました。

凄まじい体力ですね、孔子。

孔子が69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国します。そしてこの年に孔子の子である鯉が50歳の若さで亡くなりました。

母親は大変悲しがったようで、孔子があまりに嘆く妻をたしなめたとも言われています。

その後、何度か孔子が魯の君主に進軍を勧めましたが、聞き入れてもらえないことが続きました。

『論語』において孔子が

孔子画像
大夫の末席に連なる以上、聞き入れてもらえないのは分かっていても言わない訳にはいかなかった

と嘆いています。

そして、孔子は74歳の時に亡くなくなったのです。

孔子の死後

孔子の死後ですが、孔子の孫(鯉の息子)である子思(しし)が儒家となります。

この子思は祖父である孔子との面識はほとんどなかったと言われていますが、血なのでしょうか、しっかりと儒家の道を極めたようです。

そしてこの子思の学派を学んだのが孟子となり、孔子を祖とする儒教がまた展開していくのです。


参考:孔子

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