ダレイオス1世が『ペルシア戦争』を行った4つの原因とは?
世界史をやっていると必ず出てくるのが「ペルシア戦争」です。このペルシア戦争のそもそもの原因について、知らない人も多いのではないでしょうか?
ここでは、そもそものきっかけからダレイオス1世が起こしたペルシア戦争までを解説して行きます。それでは、一緒に勉強して行きましょう!
ペルシアへの危機感
ギリシアのアテナイは、交易によりだんだんと有力なポリス(都市国家)になって行きました。人口増加により、穀物輸入もするようになりました。
ですが、その輸入経路で海賊がいたり、周りのポリスと関係が悪かったりで、交易はなかなか簡単には行きませんでした。
また、政治体制も貴族政から直接民主制になったことで、アテナイはライバルであるスパルタに対抗できる強力な都市国家へと成長することに成功します。
しかし、それがスパルタと同盟都市国家に対して警戒心を抱かせる原因ともなります。
それだけではありません。北部のポリスとも戦争状態であったりと、アテナイの周りは敵ばかりだったのです。

この孤立状態はいかんと思ったのでしょう。
アテナイからアケメネス朝ペルシアへ使者を送りました。

どうか、アテナイと同盟を組んで下さい!
と使者はアケメネス朝ペルシアとの同盟関係を求めました。
しかし、相手はアテナイへ完全な服従を求めました。これに、アテナイの民会は

これはいかんでしょ!
と反発したのです。そして、同盟交渉は決裂します。しかし、完全服従を受け入れなくとも、アテナイはアケメネス朝ペルシアに対して大きな危機感を募らせていました。
当時のアケメネス朝ペルシアは、各都市国家に操り人形である僭主(せんしゅ)を就かせ、彼らを通して内政に干渉していました。

僭主って何やねん?
と思った方は、こちらの記事を先に読みましょう。
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この僭主政治、アテナイには

俺たちにリーダーなんて要らない。市民たちが政治を支えるんだ!
という直接民主制を取っていたので、通用しない政治手口でした。そんなアテナイでも、アケメネス朝ペルシアには別の危機感を感じていました。

僭主政治での影響はないにしても、穀物輸入の交易路にペルシアの影響が及ぶかもしれないよね…。
という不安があったのです。そして、その危機感は見事的中してしまいます。
イオニアの反乱の影響
ペルシア戦争の直接の原因は、アケメネス朝ペルシアの従属国であったイオニア地方の反乱です。そこに、アテナイが介入したのが大きなきっかけとなりました。

僕たちも同じイオニア方言を話すギリシア人!だからこそ助けるよ
といった理由で、この反乱に介入しました。しかし、イオニアの反乱は失敗します。そして、そのアテナイの介入をアケメネス朝ペルシア側は内政干渉として、

アテナイ調子乗るんもじゃねぇぞぃ?これで、心置きなくアテナイに侵入しちゃいまぁす♪
とダレイオス1世はイオニアの反乱を口実として、ギリシア侵攻を決定したのです。ペルシア戦争のきっかけを作ったダレイオス1世についてさらに詳しく知りたい方は、
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一方、アテナイではイオニア反乱軍へのサポートを決定した後、しばらくはペルシア穏健派と過激派で議論は対立していました。しかし、反乱が失敗に終わった後、だんだんとペルシア過激派が勢力を得て行ったのです。
マルドニオスの侵攻
ダレイオス1世は、イオニアに味方したアテナイとエレトリア(ギリシアのポリス)に仕返しするために、

ちょっとさぁ、アテナイとかエレトリアとかさぁ、最初イオニアの味方したよねぇ?だから、あいつらを懲らしめて来てよ、まっさぁん
と甥のマルドニオスを含めた部隊をギリシアに派遣しました。
この仕返しなんてのは、ダレイオス1世にとってはギリシア侵攻のための口実で、

フフフ、これでようやくギリシア全ての都市を支配できちゃうんじゃぁない?!
と実際はギリシア全域支配を目論んでいたとされています。
小規模な遠征軍であったと考えるならば、歴史家によっては、

征服なんてのは言い過ぎで、偵察に過ぎなかったのでは?
という意見もあります。
さて、甥のマルドニオスによるこの遠征は途中で、暴風雨にあって大損害を受けます。さらに、マルドニオス自身も手傷を負ってしまったため、遠征軍は撤退せざるを得ませんでした。
このように、ギリシア遠征は失敗に終わってしまったため、マルドニオスはクビとなったのです。
その後も、ダレイオス1世はギリシアのポリスのことが気になります。そして、ギリシア人の各ポリスに、

土と水を献上してもらって、従う気があるか確かめようじゃないのぅ。
と要求します。ほとんどのポリスはダレイオス1世の命令に従いました。しかし、アテナイやスパルタはこれを拒否します。
当時のアテナイでは、

ダレイオス1世に従う?どうする??
と揺れ動いていました。さらに、アテナイと仲の悪かったポリスがダレイオス1世の言う事に従うのを見て、そのポリスと紛争状態にもなります。
スパルタも、アテナイと同じように揺れ動き内紛を起こしていました。
マラトンの戦い勃発
ダレイオス1世は、

要求を呑まなかったポリスに攻めようじゃないぃ?!特に、アテナイとスパルタちゃんたちねぇ♪
と、600隻の三段櫂船(さんだんかいせん)という軍の船を派遣しました。
そして、ペルシア艦隊はエレトリアに侵攻します。エレトリアでも、ペルシアに付くかどうかで揺れ動いていました。
その時、アテナイの援軍があったのですが、

え、ペルシアに付くかどうかでまだ悩んでるの?
とアテナイの援軍はエレトリアの混乱を目の当たりにしてしまいます。そして、

うーーん、エレトリアを守ろうと思ったけど、そんな状態なら帰るか!
と守備を放棄して帰ってしまったのです。
一方、エレトリアはペルシア軍の攻撃を受けると、

悩んでる場合じゃなかった!戦わねばやられる…!!
と交戦の意志を固めます。そして、7日間ペルシア軍の攻撃を受けます。しかし、内部にまだペルシア軍に付こうという者たちがおり、

城門を開いて降参したら、ペルシア軍は助けてくれるかもしれない…
と考えたのでしょうか。その城門を開いたことにより、エレトリアは見事ペルシア軍に落とされてしまうのです。
しかし、その後ペルシア軍はマラトンの平野でアテナイ軍の前で敗北します。これを、「マラトンの戦い」と言います。この内容をさらに詳しく知りたい方は、
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